2018年01月11日

【映画の感想】『 ゴッホ 最期の手紙 』(その3)









前々回、前回とで、『 ゴッホ 最期の手紙 』『 初恋のきた道 』の似ている点や異なる点、僕が後者がどういうふうに前者より優れていると評価しているかを書いた。

今回は、後者の作りを参考にした上で前者の作りを考えるとしたら、どんなものができるかを考えていこうと思う。



モノクロとカラーを入れ替えてみる


『 初恋のきた道 』は、「過去」をカラーで、「現在」をモノクロで描き、ラストで一瞬だけ「現在」がカラーになることで観客にメッセージを伝えようとした。

この構造をそのまま拝借すると『 ゴッホ 最期の手紙 』はどうなるか。

まず絵柄が逆になる。

『 ゴッホ 最期の手紙 』は、ゴッホの死後、彼の手紙を届けることになったアルマン(主人公)の時制である「現在」をゴッホタッチのカラーで、アルマンの想像する生前のゴッホの姿をリアルタッチのモノクロで表現していた。

これを逆にし、アルマンの時制をモノクロで、生前のゴッホをカラーで表現する。

シナリオからすると、主人公アルマンは青年にありがちな世をすねた、未来への展望を見いだせない鬱屈した生活を送っているので、そちらをモノクロで描くのは心情と重なっていて、より理に適っているだろう。

そんなモノクロの生活が人間ゴッホの真実に触れることで希望を見出し、その結果として彼の見える世界がゴッホタッチの原色で彩られたカラーに変わる。

ラストはそのゴッホタッチの世界をカメラが移動していくと自然の中で絵を描いているゴッホがいる、という感じで終わればキレイだろう。

製作者たちは、「現在」にはゴッホの描いた人や景色が登場するからゴッホタッチで、「過去」はまだ描いていないものもあるからゴッホタッチは使わない、ということにしたというが、むしろゴッホが自身の目を通して見ていた世界こそゴッホタッチであるべきではないだろうか。

ゴッホを理解する前からアルマンの世界がゴッホタッチなのは理屈としておかしいので、こうした方が観客も理解しやすいだろう。

ただ、本作はアルマンの時制の方が多いので、分量的にモノクロが勝ってしまい、本来の売りであるゴッホタッチのアニメーションを見せる場が減ってしまうという本末転倒なことにもなりうる。

これは飽くまでシナリオを変更しないという前提で考えたことなので、そこはこれ以上考えないことにする。

あと、このやり方は、おそらく本作の製作者が観客として想定しているであろう人たちには、ちょっとわかり易すぎるかもしれない。

やるなら「モノクロ ⇨ カラー」の象徴する意味を、もう一つくらい重ねていく必要がある。

それはチャン・イーモウが『 初恋のきた道 』でやってみせたような “ 映画と現実をつなぐようなもの ” であれば、なお良いだろう。



ストーリーは変えず、シナリオを変える


「過去」をカラーに「現在」をモノクロにするという構造は残し、なおかつアルマンが手紙を届けるというストーリーはそのままに、シナリオ上の表現だけを変えるという方法がある。

アルマンが行動するシーンも、ほとんど彼はゴッホのことを聞いて回っているので、そこは出来る限りゴッホタッチの「過去」の時制にしてしまい、そこにアルマンのナレーションやモノローグが被るような構成にする。

こうすればストーリー上で語られていることは変わらなくても絵柄においてはゴッホタッチを大幅に増やすことができる。

僕が本作を見て感じた不満点のひとつに、ゴッホの人物としての存在感が薄いというのがある。

下世話な言い方になるが、あの自画像のゴッホがエキセントリックな行動をとるのをもっと観たいのだ。

耳を切るシーンや自殺するシーンなど、アルマンが推理するという設定であれば何パターンも描けたはず。

本作の鑑賞後の印象は、ゴッホの生涯や絵の印象と比較すると、ちょっと大人しくなってしまった感がある。

何もエクストリームなエンターテイメント映画にしろといっているのではない。

ただ、絵から想像されるゴッホの人生が、こんな上品なものであったとは思えないだけだ。



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posted by カチハヤ at 22:51| Comment(0) | 映画の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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