2018年01月04日

【映画の感想】『 ゴッホ 最期の手紙 』(その2)





「過去」と「現在」


前回、帰省のために中断していた、『 初恋のきた道 』におけるカラーとモノクロの意味について書きたいと思う。

といってもネタ元は太田述正のメルマガなので、もう一度、そのリンク先を貼っておく。


太田述正コラム 映画評論32:『 初恋のきた道 』(その1)
http://blog.ohtan.net/archives/52125875.html

太田述正コラム 映画評論32:『 初恋のきた道 』(その2)
http://blog.ohtan.net/archives/52125998.html

太田述正コラム 映画評論32:『 初恋のきた道 』(その3)
http://blog.ohtan.net/archives/52126117.html



で、全部読むのが億劫で早く要点を知りたい方のために、ざっくりとした要約を書いておく。


再度確認しておくと、この映画はカラーで描かれた「過去」(1958年)と、モノクロで描かれた「現在」(1998年)で構成されている。

カラーである「過去」は、母親と父親の若い頃の話で、二人の馴れ初めが描かれている。

モノクロである「現在」は、父親の訃報を聞いて帰郷した息子を中心に母親や葬儀のことが描かれている。

カラーとモノクロで分れている理由は単純で、二つの時代を比較対象し「現在」は「過去」よりも悪くなってしまった、とチャン・イーモウ監督が考えているからだ。


「過去」で描かれている1958年は反右派闘争の頃で、これは「中国共産党への批判を歓迎する」という主旨で行われた百花斉放百家争鳴という政治運動の後に、その反動で行われた運動で、共産党を批判した者を右派(文化大革命のときは実権派や走資派)として弾劾するもの。

具体的には辺境や閑職に左遷されたり失職したり、死亡した者もいた。

文化大革命へと繋がっていく時代の中、自由な発言、批判こそが公(おおやけ)への貢献であると信じる父親にとっては辛苦の日々であったことは容易に想像できるが、彼は愛する人の故郷であるこの田舎でたったひとり教鞭をとることで自分なりに公への貢献を果たしたのだ。

しかし、その息子は大学まで卒業させてもらいながら、教師になって欲しいという両親の想いとは裏腹に、都会の大企業で金儲けに走ることで、公に背を向けてしまった。

そんな息子が、父親の教え子たちがその棺を葬儀のために集まり、その棺を担ぐ姿を目の当たりにしたことで何かを感じ、都会に帰る前のいち時間だけ、廃屋のような校舎で父親の手製の教科書を手に教鞭をとる。

その一瞬、モノクロで表現されていた「現在」がカラーになる。

エゴイストたちばかりになってしまった「現在」で、公への貢献が行われたからだ。

そして再びモノクロに戻り、映画は終わる。

これは、夜明けはまだ遠いという、チャン・イーモウの訴えなのだろう。



前回の冒頭に書いた評価が、「すごい映像、観る価値あり。」とあるわりに星が★★★☆☆なのを訝しんだ方は、ここまで読んでその理由がわかったのではないだろうか。

僕は『 ゴッホ 最期の手紙 』の監督・プロデューサー・脚本家に、チャン・イーモウが『 初恋のきた道 』でみせたような構想があるとは思えない。

戦術レベルでいくらすごくても、その上の階層である戦略レベルでそれが意味を持っていなければ評価できない。

ちなみに僕の星の付け方の基準でいうと、★★★☆☆は平均以上傑作以下なので、払った金額の分は十分満足できる出来ということなので、別に低評価というわけではない。


次回は、この構造を使う前提でシナリオを書き直すとしたらどういう選択肢があったのかを(一応このブログがシナリオについてのブログなので)書きたいと思う。


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posted by カチハヤ at 15:19| Comment(0) | 映画の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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